2015年03月08日

fever

あるものを受取りに母校に行った。卒業式のあとだった。
何かしらを遂げた人間の姿はやはり良いものだな、と思いながら3年生で溢れる廊下を目立たぬように背中をいつも以上に丸めながら通る。いくらOBとはいえ、もうここは場違いなのだ。
所属していた吹奏楽部の顧問の先生から、それを受取る。今度の芝居で、おそらくこれは重大な意味を持つ。少なくとも俺にとっては、使うことに覚悟のいる代物だ。
だが、だから、使う意味がある。

そのまま顧問の先生としばらく話す。部の近況から思い出話、結構長々と。とは言っても俺がお世話になっていた先生ではなく、OBになってからも少々コンサートを手伝ってきた中で話すようになってきた、思えば不思議な関係だ。

着いて来られないものを振り落とすのが信仰か?
啓蒙、なんてスタンスがもはや切り捨てなんじゃないか、独裁なんじゃないか?
拘りを持つことが難しい世界で、闘ってまで折り合わないことは良しと言えるのか?

いつの間にか、そんな面倒くさい母校への「論」になっていくのがいつものパターンだ。特に、「宗教」なんてワードが先生から出た時は本当に驚いた。『紅白旗合戦』を考える上でのキーワード足り得ると、俺が思っている言葉だ。何気なくそれを先生が言ったとき、ああ、大事なものはちゃんと物語にしなきゃな、と覚悟を新たにした。
その後稽古を終え、家でこの間録った音声を文字起こし。脚本と文芸助手と、あと相談役というストレンジな役職による作品についての座談会は、やはり作品の核に迫るなかなかスリリングな内容で、ちゃんと文章にするには気合が必要そうだ。
キーボードと格闘していると昼間の会話と、ヘッドフォンから聞こえる話題と、今ケータイに飛び交う、これもまた切実に物語と関わりそうなメッセージが、そして自分の実体験が頭の中でリンクして、それらがぐるぐると回っている。

とにかく、面白くしなければ。囚われた狂信者なら狂信者なりの、血の通った回答を見せてみろ。どうしようもなくパーソナルな感情でも、拡散しろ、伝達してみろ。

多分、全てはそれなりに普遍的で、それなりに特別なんじゃないかな。畢竟、全ては象徴足り得るし、だから物語れる。
posted by 淺越岳人 at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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